北海道リーグ参加チーム

コンサドーレ札幌 1

コンサンドーレ札幌

さて、先ほどまでは北海道のアマチュアクラブサッカーチームをご紹介してきましたが、ここからはJリーグチームについて話を進めていこう。北海道にも数多くJリーグを目指しているチームは多く存在しているが、ほとんどがその夢をかなえる一歩手前で夢を何度も途切れさせている。そういった中で、北海道内の中で唯一Jリーグのチームとして活動を続けているのが『コンサンドーレ札幌』となっている。様々な変遷を辿っているコンサンドーレ札幌ではあるが、そんなチームの歴史を振り返ってみよう。

スローガン

  • 2003年 We Shall Return
  • 2004年 全力蹴球
  • 2005年 真っ攻勝負!
  • 2006年 闘
  • 2007年 Power to 1
  • 2008年 Progress
  • 2009年 戦
  • 2010年 「MOVE」 -より速く、より正確に、よりタフに-
  • 2011年 Challenge for Smile
  • 2012年 「We Go On」 -ただ、ひたすらに-
  • 2013年 北海道とともに、世界へ

サッカーやってみる?

エンブレム

北海道に生息する日本最大のフクロウ『シマフクロウ』を象徴的に図案化して、頂点にはばらく翼を持つシマフクロウを縦型の中に、チームの結束を示す11個の星、勝利を見据えるシマフクロウの眼光は投資を現し、ブリザードを表す白ストライプは攻撃性を配し、それらがホームタウンを意味するリボンの円弧を根ざすデザインとなっている。

マスコット

  • シマフクロウ-ドーレくん

コンサドールズ

日本のサッカークラブとしては史上初のクラブ専属オフィシャルダンスドリルチームとなっており、1997年5月15日にて厚別競技場でデビューすることになる。試合開始50分前、選手紹介・選手入場前・ハーフタイム・ゴール後・ゲーム終了後にパフォーマンスを行なう。ミスダンスドリルチーム日本大会で優勝の経験もある実力派となっている。サテライト・ユースなどの下部組織を持ち、若手の育成にも励んでいる。

歴史 1

1996年の頃

『北海道からJリーグチームを』を合言葉に、JFLへ参加を決める。その際に監督には高橋武夫氏が務め、更にFWにアルシンド、DFペレイラらJリーグでの実績を持つブラジル人選手を迎えて活動は始まる。ところが、プロ選手と前身のサッカー部から出向してきた社員選手が混在してしまったことで、アルシンドは審判への暴言で長期出場停止処分となってしまい、復帰してもすぐにトラブルを起こしてレッドカードを出されるなどの問題行動を連発したために、そのまま退団処分となってしまったこともあり、その時のコンサンドーレの最終成績は20勝10敗の全16チーム中5位という結果に終わってしまう。しかしながら、新人の吉原宏太の活躍・同年のチーム得点王でもある川合孝治を含む当時の東芝社員選手を中心にしたチーム構成で、シーズン後半は内容が向上するなど、明るい展望も出始めていた。シーズン終了後、その東芝社員選手の契約更新がなされなかったことで、クラブとマスメディア・サポーターの間に緊張関係が発生してしまうなど、誕生したばかりのプロのクラブとしては運営の難しさが表面化してしまうことになってしまった。結局、チームに残留する意志を示した社員選手は東芝を退社してプロ選手になるという形で決着がついたものの、どこかすっきりしない結末に苦虫を噛んでしまった人が多かったのも事実である。

1997年の頃

ウルグアイからウーゴ・フェルナンデスを監督に招聘して『チームはファミリー』を合言葉にして、試合内容は周囲の期待通りに快進撃を続けて、トータル結果として26勝4敗で旧JFLを優勝し、念願だったJリーグへの昇格を果たすことになった。また、ナビスコカップ予選リーグでJリーグ性を抑えて、決勝トーナメントに進出すると、そこでかつて前進の東芝に在籍していたパナマ代表FWバルデスがチームに復帰を果たすこととなり、40得点で得点王となり、ウーゴ・マラドーナとのホットラインで活躍を見せることになる。しかし、親会社を持たずに資金直に乏しいチームにも関わらず、昇格を急ぐあまりに選手獲得に多大な借金を投入したしわ寄せが、この頃から顕著に表面化し始めてしまい、慢性的な赤字体質に悩まされるようになる。11月にJリーグ臨時理事会でJ正会員として正式承認された。

サッカー観てみる?

1998年の頃

見事にJリーグ昇格を果たしたコンサンドーレ札幌は、戦いの場をJリーグに移す。1stステージでは第4節のG大阪でJリーグ加盟後初勝利をあげたら、4勝13敗の16位低迷をしてしまっている。2ndステージでは何とか持ち直すことに成功するが、フロントとの意見の不一致から10月にフェルナンデスが監督を解任してしまう。後任に石井肇が就任するものの、2ndステージ8勝9敗の10位で、年間順位も全18チームは14位という微妙な成績でシーズンを終えることになる。

この年は翌1999年からJリーグが2部制に移行する関係のため、シーズン終了後にJリーグ下位チームとJFL優勝チームによるJ1参入決定戦が予定されていたが、このJ1参入決定戦に廻るチームというのは、この1998年のリーグ戦の順位ではなく、1997年~1998年の2シーズン通算の順位ポイントによるものになっていた。1997年シーズンは下部リーグJFLにいた札幌には、1998年1シーズンのみの順位ポンとしか計算されないという不利な条件となっていた。J1参入決定戦で神戸、福岡にそれぞれ2連敗を喫してしまい、Jリーグ史上初の降格チームとなってしまう。J1参入決定戦を回避するために繰り返した選手補強も実らず、またJリーグによる観客動員増加も想定ほどではなく、累積赤字は27億円以上にも上ってしまうのだった。

1999年の頃

Jリーグディビジョンに降格となり、『1年でのJ1復帰』を目指して岡田武史監督を依頼する。また、平塚から名塚善寛、鹿島から佐藤洋平、ロナウジーニョの実兄アシスらが加入した。日本代表をワールドカップ初出場に導いた岡田氏に対する期待は大きく、開幕前は昇格の有力候補としてみなされていた。ところが、Jリーグでの監督経験がなかったことが災いしてなか、チームの構造に思った以上の時間を要することになってしまい、またリカルジーニョなどの外国人選手が不発に終わってしまい、昇格争いに絡むことさえ出来ずに、17勝6分13敗で全てが終了した。シーズン終了後には、吉原宏太がG大阪に移籍をしてしまい、さらにはJ2降格によるスポンサー料を収入源とあり、累積赤人も30億円も突発してしまうのだった。

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